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  • 執筆者の写真Polyphonia

あの日から10年〜学生と東日本大震災をふりかえる(前半)

更新日:2021年3月12日

*本インタビューは2021年3月3日に実施しました。

■被災当事者として

花田[以下花]:舞(仮名)さん、今日はお時間をありがとうございます。以前、舞さんから地元が岩手県沿岸部で東日本大震災の際は被災したと聞いてから、これまで何度か当時のことについて話しましたね。今日は、本学CDS職員の半田さんと一緒に、オープンダイアローグでよく使われる手法のリフレクティングを交えながら、この10年をふりかえってみたいと思います。舞さんと最初にお会いしたのは、入学してすぐで、たしか私が担当した演習授業でしたね。

舞:そうですね。

花:一学期の終盤、たしかまとまって授業に来れなくなった時期があったような。舞さんのことをひどく心配した覚えがあります。後期に見事にもちなおして、おおすごいなと感心しました。

舞:そんなことありましたっけ。よくない記憶を消し去る癖があって・・・(笑)。

花:これから10年間をふりかえろうというのに、まさか2年前も思い出せないなんて(笑)。それでこの自主ゼミ(「障害と社会」をテーマに学生主体で学ぶゼミ)に入ってきたのですね。ゼミの学びで印象に残った部分は何かありますか。

舞:障害を抱えながらそれを公表して、自分の意見をしっかりと言える仲間たちが印象的でした。私も一応被災当事者ですが、自分のことを話すのが苦手なので。ゼミで被災の経験のことをたどたどしく話したのですが、みんなが受け止めてくれたのも印象に残りました。

花:あの震災から10年の時間が経とうとしていますが、舞さんの今のお気持ちを聞かせてください。

舞:もう、10年かと感じます。あの時起きたことと自分を切り離してみてしまう自分いて、当事者じゃない感覚があります。当事者なんですけど。

花:「被災者」という言葉がありますけれど、自分との距離感みたいなものを感じるのですか?

舞:うーん。私の地域では、家を失った人や、家も家族も失った人とかがいて、「被災者」という風に一括りにしてしまうと、それぞれ支援金の額とか行政からのサポートのされ方も違うので、本当に自分が「被災者」でいいのかなと。私の幼なじみや転校した友人なんかは家も家族も失って、どうしても比べてしまうと、(家族は失ったけれど、家を失っていない)私は「被災者」って言っていいのかと。中から見た「被災者」と、外から見た「被災者」はどうしても違うので。

花:「被災」の現実は一つとして同じではないですからね。

舞:例えば、私の学校の子で亡くなった子は弟を助けようとして亡くなってしまって。ほかの学校では、学校そのものが流れさてしまったり。だからなんだろう、私は「被災者」なのかなあっと。すみません、私はあまり深く考えない方なので。


■私にとっての「普通」

花:以前言ってくれていたことで、当時の記憶がなくなっていると仰っていましたね。

舞:思い出すことから逃げているのはわかっていたので、最近は信頼している叔母さんとは話せるようになりました。ただ、当時の状況を共有していない人と話すときは、伝わりにくさを感じ、うまくいきません。当時は、学校の体育館が、遺体安置所と避難所と病院みたいになっていて、全部つながっていて。校庭も避難した人の車でいっぱいになっていて。それが自分にとっては「当たり前」でした。そういうことを少しでも話すと、同級生から「よくそんな状況で生きてこれたね」と驚かれてしまうことが多くて。私にとっての「普通」が、「おかしい」と言われてしまうとそれ以上話が進まなくなる感じがあります。

花:当時はいくつくらいですか?

舞:10歳です。

花:まだ子供のころですね。

舞:父の遺体を探しに、遺体安置所の駐車場まで行くんですけど、中までは一緒に行かなかったです。確認のために歯形の写真がいっぱい載っているものを見たことはあります。断片的で、記憶から消してしまっている部分があると思いますが。

花:子供の目から見て、当時の避難所の現場には、子供をそういう生々しい部分から守ろうというような大人の共通理解みたいなものは感じられましたか。

舞:どちらかというと、大人も余裕はありませんでした。子供に遺体とかを見せてはいけないとか、そういうのはあったのですが、震災直後に町がぐちゃぐちゃのなかに家族を探しに行った記憶があるので、そんな場合ではなかったと思います。当時の私よりも、むしろ親や祖父母の方がいっぱいいっぱいでしたね。自分は冷めた目でみようとはしていたので。一歩引いて見ているような感覚です。父のお葬式のときは、大人たちは悲しみに暮れていて、自分は泣いちゃいけないと思っていました。

花:10歳って、子供だけど色々わかる年頃でもありますね。

舞:私はできるだけ深く考えないように、周りもよく見ないように、状況を受け止めないようにしていました。今だからわかるのですが、幼なじみの子はほとんどの家族を失って、家も失って、そのあと引きこもりになってしまったのですが、その子は私と違っておそらく全部感じとってしまって出られなくなったのかなと、最近思うようになりました。

花:当時の友だちたちとはまだ連絡をとり合っていますか。

舞:とれていません。先ほどもお話ししたように、失ったものがそれぞれ違うので、その違いがズレになっていったのかもしれません。私は家が残っていて、震災があった次の日に遊び相手を探しに学校に行ったのですが、その子の母親が数日後に見つかったときは良かったと思いました。


■瓦礫の安心感と怖いのに好きな海

花:舞さんは、現在大学生で、地元から離れてしばらく経ちますが、ふりかえってみて、思い出し方に変化はありますか。時間が経つほど消えていく部分とか、むしろ鮮明になってくる部分とか。

舞:昔は、親類が集まるときに、亡くなった家族のことを話すのを聞くと、嫌だなあと感じる時がありました。なんだか美化されているような気がして、私は嫌いでした。もともと家庭環境は良くなかったので。お墓参りとかもあまり好きじゃありませんでした。お仏壇にもお線香をほとんどあげてなかったです。まあ、今はあげていますが。お墓参りとかも地域の習慣で毎週行くことがあったのですが、面倒くさいなと思って理由をつけてサボったりしていました。大人はみんな私の考えなんて聞いてくれなかったので。お金のことや私に関わる大事なことでも、私の意見や気持ちを認めてくれませんでした。でも今は心境の変化もあり、親類にも今後震災のことを聞いてみようと思います。その方は建設業で瓦礫撤去や高台建設をしていたので、地元の変化をつぶさに見ていたと思います。

花:嵩上げされた地元の町は見てみましたか。

舞:はい、なにもないので、私は嫌いなんですけれど。どちらかと言えば、瓦礫が残っていたときの方が安心していました。震災から二年後くらいから、町の風景がどんどん変わっていって、寂しいなと思いました。なかでも海が見えなくなったのが悲しいです。

花:あえてお聞きするけれど、海が見えなくなるとなんで悲しいのかな。

舞:うーん、わからないですけれど、海があっての町だからですかね。やっぱり、海がきれいなんで。怖いですけれど、海、好きです。

花:怖いのに好き、って面白い感情ですね。

舞:はい、津波がきても、好きですね。沿岸部に住んでいる人にとって、地震がくれば津波がくるということは訓練もしていたし、常識的なことでした。ただ、あの日は、津波が来るのが遅かったので、せっかく避難したのに大丈夫だと帰ってしまう人が多くいました。津波が来ることはわかっていたはずなのに、なんで帰ってしまったのか。不思議でなりません。

後半に続く)


*カバー写真:宮城県名取市の海岸で2019年3月、花田太平撮影(写真と本文は直接関係はありません)

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